山登りと異界訪問譚

新年を迎えたというのに風邪をひいてしまい、寝込んでいた。
年末から、少し時間ができたので学生時代に読みかけていた本を取り出して読み、
今日は安静にしながら新潮社「考える人」の最新号を読んでいた。
そして、常々思っていたけれど、忙しない仕事をする毎日のなかで意識外に追い出していたことを思い出した。
それは、「山歩きとは、一種の異界訪問譚である」ということ。
異界訪問譚とは、民話や神話のひとつの系統で、
主人公(多くの場合は人間)がひょんなことから異界(あの世、動物の世界など)へやって来て、
再び此界に戻って来るというパターンのもの。
多くの場合、主人公は異界に行くことである秩序やタブー、あるいは知恵を知り、
それを此界にもたらす。
日本列島では、山は神の住む領域、死者の領域とされ、
死者の魂は山へ還っていくと考えられてきた。
奥山は立ち入ってはならない場所であった。
その「山」へあえて立ち入ろうとする者たちが現れた。
それが山伏で、彼らにとって山に入るということは自分を殺すことであり、
死者の世界である山(それは同時に母胎でもある)を歩き、やがて、母胎としての山からこの世に再び生まれるということを、
儀礼的に体系化した。それが山伏の行だと言われている。
時代は変われど、やはり山は人間の力の及ばない領域だと思う。
山の主人公は動植物であるし、
山で命を落とす人が絶えないのは、死の世界であると言っても良いと思う。
しかし、あえて人は山へ向かう。
たとえば、登山届けはあの世へ向かうための切符のようなものだと思う。
登山届けを提出したとき、その登山者はあの世へと足を踏み入れる。
登山届けは、もし、万が一、本当に山から戻ってこなかった(この世に戻ってこなかった)ためのものである。
登山装備もしかり。山=死の領域で本当に死なないために必要なユニフォームだと言えるだろう。
そうして、人は山に入って行く。
1日では、まだその人の肉体も精神もあの世との境界を強固に保っている。
しかし、日数が経つにつれて、その境界があいまいになってくる。
少しずつ、あの世へと肉体と精神が溶けていく感じ。
そのなかで、登山者はさまざまな風景を見て、暑さ、寒さを体験し、
強風や物音に戦き、そしてあるところで下山、つまりこの世に帰還する。
あるいは、あの世に行ったきり戻って来れない人もいる。
そして、その経験が多くなればなるほど、登山者はあの世の深淵(厳しく、険しい場所)へと分け入ることができるようになっていく。
世界の捉え方の問題である。
しかし、このように山登りを捉えるのなら、
自分の仕事はそのなかで何をすることなのか。
それは、いかにあの世の方向に近づいていけるか、
そして、神話で秩序やタブー、知恵をこの世にもたらされるように、
あの世の秘密をこの世にもたらすことができるのか、ということである。
自分にとってあの世の秘密とは、絵であり、言葉であり、それを支える思索なのだろう。
表現の源泉は、あの世にあり、そのエッジに近づいていったとき、盗み出すように、その源泉を持ち帰って形にしてみせることが、
できるかどうかは別として、目指すべき仕事なのだと思う。
このご時世、こんなことを書かせてくれる山雑誌はないだろうから、
幸か不幸か、ブログは便利だなと思いながら、忘れないうちに書き連ねた。